「組織」に対する「個人」とはどのようなものでしょうか。往々にして、「個人」とは、「自らの能力によって組織に頼らず・・・自立して社会の営みに参画する人」という意味で語られます。でも私の見解は少し異なります。
私は、「個人」を組織や他人に依存しない一匹狼という捉えではなく、組織の呪縛から解放された存在でありつつも、多くの組織や他者とのネットワークを持つ人と考えています。つまり、特定のコミュニティに依拠するのではなく、様々な他社・他者と相互依存の関係を持って活動を起こしていくということです。
そこで私は、「個人」を、孤独な人、孤高の人という「孤人」ではなく、その対極の「Co人」と定義したいと思います。CoとはCollaboration , Cooperation , Co-creation, Communication などの意味を持っています。
集団から個別化、組織から個人といわれる時代の転換の中で、未来社会においては、「組織」を内包した「個人」が求められていくでしょう。それは、旧来の組織やコミュニティが持つ理不尽や、不合理な部分を解体し、しかしそのコミュニティが持つ値打ちを評価し、それを自分の中に取り込み、組織を再構築するこということです。
もし、世界中の一人ひとりが、自分の中に「学校」という組織を持って、その経営者として自立し、互いに交流し、知見を分かち合うことができればどんなに素敵なことでしょう。
「しもまっちハイスクール」は、一般の学校や塾のように、模試の偏差値向上、大学合格などの進路達成、資格取得というものに直接的にフォーカスしません。
また、学校には、「質実剛健」とか「自主自律」のような校訓や校是がありますが、「しもまっちハイスクール」にはそのようなものはありません。敢えて「しもまっちハイスクール」が目指す目的をあげるならば次の2つです。
学ぶ楽しさを見つけると、すべての答は自分の中に既にあることに気づきます。あなたはその先にある大きなものを手に入れることでしょう。大学合格などもひとつの例かもしれません。しかしそれはおまけのようなものです。
痩せることを目的に、様々なダイエットメソッドを渡り歩き、減量することをゴールにするのではなく、日々健康に楽しく美しく生きていたら、副次的にスマートになっちゃったとでもいいましょうか。
WEB上の学び舎「しもまっちハイスクール」は、校長ならぬ「学校改革のコンシェルジェ」しもまっちが、楽しさに没頭しながら創作した様々なコンテンツを自由に閲覧できます。私自身が楽しんで創ったコンテンツに触れることで、「こんなのもアリか」と学ぶ楽しさに目覚めたり、自分の方向性を再認識したり、楽しく学ぶことへのモチベーションが勝手にあがってしまったら、これに勝る幸せはありません。
校章は「あり得ない三角形によるあり得ない絡まり」を示しています。「ありえない三角形」とは一体何のことでしょう?
これは、1934年にスウェーデンの芸術家オスカー・ロイテルスバルトが考案した図形ですが、その後、イギリスの物理学者ロジャー・ペンローズが「不可能性の最も純粋な形」として広く示したことから、「ペンローズ三角形」と呼ばれています。というわけで、この立体は、我々の住む3次元空間上で実現することは不可能です。
ちなみに、ペンローズは、2020年にノーベル賞を受賞しています。彼の研究は、銀河系の中に、一般相対性理論が成り立たない(つまり因果律が破たんする)特異点が存在するというものらしいです。どうも私たちの常識では考えられない世界ですね。
さて、歴史上の大きな発見や世紀の大発明は、「継続は力なり」的努力や、愚直な演繹的積み重ねによって得られてきたわけではありません。こんなことを言うと、教育的ではないと怒られるかもしれませんね。でも私は、そういうイノベーションが生まれるには、ある種の異次元空間から降りてくるインスピレーションや、「宇宙図書館 注1)」から受け取るメッセージのようなものが存在すると思うのです。
このようなことを書くと、訝しげに眉をひそめる人もいるかもしれません。あ、そこのあなた、逃げ出さないでもうちょっとおつきあいくださいね。
私が言いたいことは、それまで当然と思って疑わなかった常識や信念体系を手放すことによってこそ、無意識の領域が働きだし、驚くべき発想や開眼が生まれるのではないかということなんです 注2)。つまり、真面目に積み上げてきた学びの成果や経験知が、時にイノベーションを阻害するバイアスになることもありうるということでもあります。 素粒子物理学の第一人者である南部陽一郎先生は、素粒子を極めるにはという問いに対し「素粒子のことだけ一生懸命勉強すればいいということではない」「人が考えないことを考える」「自由な発想が新しい理論を創りだす」と答えています。そして、そのために彼は様々な分野に興味を持ち、「アナロジー、メタファをいつも考えている」のだそうです。
しもまっちハイスクールでは、社会の中で作られてきた、国語・数学・理科・社会・・という独立した個々の教科の学びから、家庭科×生物×英語、数学×音楽×社会などのような、領域の柵をはずした融合的学びに価値を見出だします。いやいや、もっというと、映画やマンガや料理やゲームやお笑いやお絵かきや、なんでもかんでもチャンプルーしたものが学びであり、アソビであり、それを全力で面白がることで、そこにメタファや発想の飛躍を生み出すエネルギーが生まれるのだと思います。そんなクールな学びを行っている人を、私は今こそペンローズマナビストと定義しちゃいます!(何のこっちゃ)
まとめますと、このような、学びの多次元化、常識や信念体系のスクラップ&ビルド(ゴンドサレ 注3)、そしてアソビゴコロのシンボルとして、このペンローズ三角形を取り入れてみたのです。(注1~3はしもまっちの盟友・高橋惣兵衛さん語録より引用)
校章は、このペンローズ三角形が3つ交わっているカタチになっていますね。では次に、その交わりの構造について説明します。
ボロメオの輪(The Borromean Rings)とはルネッサンス期に栄えたボッロメオ家の紋章です。絵に描くとこのようになります。ちなみに、日本の家紋にも「輪違い紋」として、このような輪が存在します。
図の3つの輪はしっかり絡まっているように見えますね。でも、よく見ると実はどの2つも交差していません。
2つの輪が交差している状態のことをポップリンクといいます。これだと2つの輪を分離することはできませんね。
ところが、ボロメオの輪を見ると、どの2つのリングも、次の図のように、単に重なっている状態になっているだけであることがわかります。
ポップリンクなら図のように、すぐに分離することができます。
ところが、ボロメオの輪は、どの2つのリングもこのような状態になっているにもかかわらず、しっかり絡まって見えるところが不思議で面白いところなんですね。なので、ボロメオの輪もペンローズ三角形同様、3元空間内に、リングをゆがめることなく実現させるのは不可能です。
ここで皆さんもうおわかりでしょう。しもまっちハイスクールの校章は、3つのリングをペンローズ三角形に変えたものなのです。
フランスの哲学者ジャック・ラカンは、彼の精神分析理論の中で、人間の内なる世界として、現実界・想像界・象徴界という三つの世界に分類し、それをボロメオの輪にたとえたといわれています。しもまっちハイスクールの校章は、このラカンの3つの世界観を私なりに受けとめ、その思いを込めたものなのです。では、私が考えた三つの世界観の解釈を以下に示します。
現実界とは、生まれた時に初めて出会うもののような、ありのままの世界のことです。それは言語化できない世界、つまりそれについて思考することができない領域といえます。
しかし人は、現実界のものを理解しようと言語化しラベリングし、人々のコンセンサスを得ようとします。このように言語化された世界が象徴界です。
人というものは、現実界を象徴界にせっせと移そうとする属性を持っているのかもしれません。壮大な例では宇宙法則を一つの式で表現しようとか、身近なところでは「あの人ってこういう人だよね」とかなんとか言って自分の世界の中で相手を評価し、納得しようとするとか。しかし、どんなに言葉を尽くしても、現実界のモノを完璧に説明することはできません。もしかしたらその解釈は人によってまるで異なっていることだってあるでしょう。あるいは科学的に現実を測定する行為が、現実に変化を与えることもあるかもしれません(観察者効果・シュレディンガーの猫など)。
しかしながら、言語化・ラベリングによって象徴界が大きくなり、共有化されることによって、やがてそれは人類の財産となり、「社会」が形成されます。あるいは「学問」が生まれるでしょう。
象徴界は、言ってみれば人々の生活に利便性をもたらす秩序あるコントロールされた社会ともいえるかもしれません。しかし、その反面、差別や格差や対立や妬みなどを生み出す温床とも言えるのではないかと思います。
現実界と象徴界の間にあるようなものが想像界です。想像界とは個人の内面にあるイメージの世界です。例えば、鉛筆とか、ビールなどは言語化によってそれが何であるかを他者と共有できます。でも、「愛」「幸せ」「学び」などは、辞書的に言語化はできますが、それ以上のイメージをそれぞれの個人が抱いています。なので、このような想像界の事象は、象徴界に比べ、他人との共有が困難です。
さて、以上のことを踏まえて、私がこの校章の図にこめたことは、次の2つです。
一つは、「あらゆる事象、あらゆる他者、つまり『世界』は、言語化によってすべてを理解することができないことを理解する」ということです。ペンローズ三角形がしっかり絡まっている状態は、理解が深まっている状態であり、あるいは愛と絆が満ちている状態でもあります。でも、これが過剰になると、自分の掌の上で人を支配しようとしたり、過干渉に陥ったり、あるいは過度に他に依存してしまい自分を失います。ボロメオの輪の構造は、ホップリンクになっていないので、それぞれの輪は自由に解き放たれることが可能です。こうして、つながったものを解き放つことをこの校章の図は主張しています。
二つ目は、「だからこそ、私たちは問い続ける必要がある」ということです。現実界、象徴界の事象を言語化することは、解を得ることをゴールとするのではなく、そのプロセスから私たちは生きることを楽しみ、そして自分が何者であるかの輪郭を掴むことができるのではないかと思うのです。宮澤賢治の言葉を借りると「求道すでに道である」ということでしょうか。
宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」が出てきたので、最後に、そこからの一節を紹介して終わりたいと思います。
「おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術を創りあげようではないか」
「まづもろともにかがやく宇宙の微塵となりて無方の空にちらばらう しかもわれらは各々感じ 各別各異に生きてゐる」
「近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直感の一致に於いて論じたい 世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 自我の意識は個人から集団社会宇宙と次第に進化する」
これらの一節に見られる賢治の精神が、しもまっちハイスクールの校章の中に息づいて欲しいという願いを込めて。
しもまっち