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蛾のヒステリーほか

私は授業の冒頭にアイスブレイクを行うのですが、ネタがないとき適当な「小噺」をすることもあります。

例えば写真のようなボードを持って行って生徒のリクエストに応えてお話をします。ではこの話からいくつかを紹介します。

蛾のヒステリー

よく学校の廊下などの窓ガラスの下に蛾が死んでいる光景を見たことがありませんか。それを箒で掃き出そうとすると、いきなり目覚めてパタパタと飛び立ったりしますね。実は蛾は死んでいるのではなく、ふてくされて眠っているだけだったのです。

蛾は夜に、窓の外に見える世界に向かって飛び出ようとします。しかし、そこには窓が存在するため、ぶつかって跳ね返されてしまいます。蛾は何度も、跳んでは窓にぶつかり跳ね返されます。そんな行為を繰り返すうちに、蛾はヒステリーを起こしてしまうのです。そしてふて寝してしまうんですね。

 

これを、人間の世界で考えればどんなことになるでしょう。例えば、夢に向かってチャレンジし続けること。このことには意味がありますが、絶対にかなうことがない課題に臨み、同じ失敗をし続けると、人もいつしか問題行動を起こしてしまいます。

簡単すぎる課題を与えるのも人を成長させませんが、失敗しても何も得ることがない課題をひたすら行わせることも問題であるということですね。これは先生や親が肝に銘じておきたい言葉かもしれません。

ノミのジャンプ

ノミは自分の体長の150倍の高さまでジャンプすることができるといわれています。このノミの上に、高さ10cmくらいのコップを被せます。するとどうなると思いますか。ジャンプするとコップの天井にぶつかってしまいます。すると、何度もこれを繰り返すうちに、ノミは、コップを取り外しても高さ10cm以下までしかジャンプできなくなってしまうんだそうです。本当かどうかはわかりませんけど(笑)。つまり、ノミは置かれた環境に「順応」して、自分の限界を作ってしまったんですね。

 

このコップを「学校」という環境に置き換えて見るとどうでしょう。テストなどでの点数による序列化や、他者との比較、あるいは、人と同じように振る舞わないと仲間外れになるかもしれないといった同調圧力などの中で、自分が持っている能力にどんどん限界を作ってしまっているのではないか。そんなところですね。

 

さて、では、10cmしか跳べなくなったノミ君が、再び能力を復活させるにはどんなことをすればいいでしょうか。昨年、中学1年生にこの話をしたところ、生徒からこんな意見がでました。

「高いコップに置き換えてあげる」「だんだん高いコップに変えていく」

なるほど。能力を失った過程の逆を辿らせるということですね。

「高いところから落とす」

なるほど。失ったものは勇気だったのかもしれませんね。

「恐怖をあじあわせる」

脅しなどで「恐怖心」を与えることによって自分を変えることができるのではないかということですね。なるほど。

失った能力を回復させるには他からの強制や荒療治が必要なのかもしれませんね。

それぞれの答え面白いですね。これらの意見から伺えられるのは、ノミ君は、本当はジャンプする能力が失われたのではなく、「自分はできない」と思い込んでしまうような「考えるクセ(意識)」ができてしまったというとこなんですね。

そこで思い出すのは、映画「マトリックス」で、モーフィアスがネオを鍛えるシーンで、言うセリフ「Don't think you are.You know you are.」(速く動こうと思うな、速いと知れ)というもの。

「自分はできない」と限界を意識することが、無意識の力をセーブしてしまっているんですね。モーフィアスは既にできる自分を認知することで無意識を変えていくことを促しているように思えます。

なので、生徒たちが言ったことは、そういう自分の意識を変えるためのアイデアだということがわかります。

もちろん、これは答えのない問題なので、それぞれに価値があると思います。

 

ちなみに一般的な答は次の様なものです。「普通に高くジャンプできるノミと一緒にする」

自分を変えるためには、他者の存在が大きいと思います。外国人の中に入って生活すると自然に言語が身につくように、より高くジャンプするノミと一緒にいることで、彼は自然に、自分の中に作っていた限界を取り払うのではないか、ということですね。

これも環境を変化させることで無意識の世界をバージョンアップするということかなと思います。無意識のパワーを信じることって大切ですね。

ざるドジョウ

ドジョウを売るお店があります。大きいドジョウは高く売れ、小さいのはあまり売り物にはなりません。この店では、生きているドジョウをたくさん仕入れるのですが、その中には大きいドジョウ、中くらいのドジョウ、小さいドジョウがごちゃごちゃに混ざっています。それらを、1匹ずつ取り出して、大中小のドジョウに分けるのは面倒です。

店主は考えた末、あることを行い、見事ドジョウをランク別に分けることに成功しました。どんなことをしたでしょうか。

生徒からはこんな意見が出ました。

「小さい穴が空いている入れ物にドジョウを入れる。すると小さいドジョウはそこから落ちるので大きいドジョウだけ残すことができる」なるほど、うまい!

でもね。実はその店主がしたのはそうじゃなかったんです。彼がやったのは、ザルにドジョウを入れておいただけだったんです。

すると、彼は何もしていないのに、そのザルの中で、上方に大きいドジョウ、真ん中に中くらいのドジョウ、下方に小さいドジョウというように自然に分けられたのです。

つまり、誰に命令されることなく、ドジョウ社会の中で、強い者と弱い者の棲み分けが起こったのですね。

このような社会の中で生まれる1軍、2軍のような階層を「ヒエラルキー」といいます。ではこの「ざるドジョウ」の話を、学校社会にあてはめて、想像を巡らせてみてください。例えば、私は授業で毎回くじ引きで班を作っていますが、もし「好きなように班を作ってよい」といわれればどのようになるでしょう。きっと気心の知れた人どうしが集まると思われます。でも、そんな中、はずされる人が出てしまうかもしれません。クラスの中で、声の大きい人たちが何でも仕切っていませんか。そして隅っこにいる声の小さい人の存在に心を遣うことができない人はいませんか。

学校とは異なる考え方や価値観を持つ他者に共感し、互いに尊重しあうための訓練の場であるといわれます。そのフレーズ耳タコかもしれませんね。でもなぜそんなことが繰り返し強調されるのでしょう。それは、学校はいつでも「ざるドジョウ」の場になる可能性を持っているからです。深い関係を持つ仲間だけの世界を作り、そのまわりに垣根をこしらえてすごす学校生活。自分と自分を含む限られた仲間が安全で幸せであればそれでよいとする学校生活。そう思うことが自然であるからなのです。いわば「ざるドジョウ」とは、社会や学校の縮図なのかもしれません。

残りの話についてはいずれまた。