今年の5月の話になりますが、某高校の3年生から、探究のアドバイスの依頼を受け、その高校にでかけてお話をしました。この日は丸1日、生徒全員が、自由にそれぞれが研究内容を掘り下げる日となっていたようでした。
私は、アクティブラーニングについて研究しているN君と2時間程ほど楽しく語り合いました。前夜に彼から、12個程の質問を受けていたのですが、それに応える形で、アクティブラーニングの定義・歴史・変遷・手法などについて説明しました。
特に、彼は「PISAショック」について詳しく知りたいとのことだったので、私の個人的な見解であることを断りながら、少し時間をかけて説明しました。以下に、私が話したことを、補足を加えながらまとめてみます。
最初のPISAショック
「PISAショック」といわれるものには2つあります。
一つ目は、2003年の第2回PISA調査で、日本の順位が急落したときのことをいいます。当時、「PISAショック」という言葉が流行し、そしてその原因を2002年に始まった「ゆとり教育」を中心に据えた学習指導要領に求める空気が生まれました。そして、2007年に第一次安倍内閣において教育再生会議が発足し「脱ゆとり教育」のスローガンの下で教育改革が行われました。
そこでは学校を企業のような経営体として捉え、目標達成型学校経営によって教育を再生するという視点が見られました。
さて、そこで私の見解ですが、そもそも私は2003年のPISA調査の結果を「著しい学力の低下」とは捉えていません。「日本は2000年には1位だったのに2003年では6位になった。だから学力低下が著しい」と叫ぶのは、あまり理性的ではないように思います。因みにこの年の各国の平均点を高い順に並べてみましょう。
香港(550点)、フィンランド(544点)、韓国(542点)、オランダ(538点)、リヒテンシュタイン(536点)、日本(534点)、カナダ(532点)、ベルギー(529点)、マカオ(527点)、スイス(527点)、オーストラリア(524点)、ニュージーランド(523点)・・・となっています。
PISA調査は、平均500点、標準偏差100点になるような変換が施されています。つまり正規分布を仮定すれば、400点から600点の間に調査したすべての国の68%が入っているということになります。すると、香港と日本の得点差はたった16点であり、先ほど挙げた上位12か国のレンジは27点なので、非常に狭い分布(平均の±1/4シグマ内)にひしめき合っていることが分かります。
ご存知の通り、PISAとは全数調査ではなく、標本調査なので、選び方に応じて平均点も変化します。日本における標本のエヌとシグマは分からないので、統計学的処理を行うことはできませんが、16点差は、サンプリングによって普通に起こり得る振れ幅の範囲であると推測できます。つまり、550点と534点は「有意な差がある」とは言えないということです。
冷静に考えれば、そのくらいのことはわかるはずですが、それを、「1位から6位になった」と大騒ぎするのは、国威発揚の発露みたいであまり気持ちのいいものではないと私は考えます。
因みに、全国学力調査においても、順位にこだわって大騒ぎする風潮は未だに全国各地に見られます。大阪市などは順位や平均点を公開し、平均より悪かった学校では人事や給与に影響を与えるということを行政が言いだし、現場が殺伐としているという実態もあります。
順位の降下よりも注目すべきこと
そんなことよりもPISA調査で私が指摘したいのは、学力調査と同時に行われるアンケートの方です。
例えば2003年PISA調査での「数学への興味関心、数学の楽しさ」についての項目では次のような結果が見られます。
・数学についての本などを読むのが楽しみである・・13% 40か国中39位
・数学の授業が待ち遠しい・・26% 40か国中31位
・数学は楽しいから勉強する・・26% 40か国中39位
・数学で学ぶことには興味がある・・32% 40か国中40位
惨憺たる結果です。
また、2012年に行われた同様の調査では次のような結果が出ています。
(参加65カ国中と、OECD加盟34カ国中の順位を示します)。
・数学における興味・関心や楽しみ 60位/65 30位/34
・数学における道具的動機付け(「学びがいがあるか」など)64位/65 34位/34
・数学における自己効力感(「解く自信があるか」など) 63位/65 34位/34
・数学における自己概念(「数学がわかる」など)65位/65 34位/34
・数学に対する不安 54位/65 32位/34
どうでしょう。こちらも、すべての項目で最下位に近い順位になっていますね。私は、調査の方の順位が多少下がったことを
騒ぎ立てるよりも、このことこそ大いに嘆くべきではないかと思います。だからこそアクティブラーニングの考え方が必要なのではないでしょうか。
2つ目のPISAショック
次に2つ目の「PISAショック」について説明します。それは2018年のPISA調査で、日本の読解力リテラシーの順位が6位から11位に下降したことを指していると思います。新聞報道で「『PISAショック』再び」という見出しが躍ったことがあります。これも、私はあまり深刻に受け取る問題ではないと思います。
まずは順位ではなく得点に着目すべきで、それは先ほど述べたようにサンプリングのアヤでもあるのです。また、読解力については、母国語が英語であるかどうかという問題も微妙に絡むかもしれません。
それでも、「学力低下」を叫ぶならば、この年にPISA調査を受験した子どもたちは、小1から中3まで「脱ゆとり」教育を受けた1期生であるということを敢えて付け加えておきたいと思います。つまり、「PISAショック」から生まれた「脱ゆとり」の新しいカリキュラムを受けた子どもたちが、皮肉にも、新たな「PISAショック」を生み出したというストーリーを作ることだって可能です。
PISAの成り立ちと背景
最後に、そもそも、PISAとは何か、どのような背景で生まれたのかについて私たちは知っておく必要があると思うので、少し触れておきます。PISA(Programme for International Student Assessment)とは、OECDが主催する国際的な学習到達度の調査のことで、15歳児を対象に読解力、数学的リテラシー、科学的リテラシーの三分野について行っています。2000年から開始され、3年ごとに継続して調査されています。OECD(経済協力開発機構)は、世界最大のシンクタンクとも言われていて、1960年に発足し、1964年から日本も参加しています。その3大目的として、経済成長・貿易自由化・途上国支援があげられますが、1968年にCERI(教育研究革新センター)、1970年に教育政策委員会が発足し、以後教育政策にも力を入れています。
このような教育政策の中で指摘されてきたのは、通常の教科で学んだことをテストするのではなく、教科横断的能力(CCC)、批判的思考力、コミュニケーション力などを育ていく必要があるということです。
そんな流れを受けて、1994年にユネスコ主催の国際教育会議がもたれ、次のような格調高い宣言が採択されています。
「教育政策は、個人の違い、人種的・社会的・文化的・宗教的な違い、及び主権国家の違いについて、理解、連帯責任、寛容さを
発展させるために貢献しなければならないことを確信した。教育は、知識、価値、態度、技能を人権を尊重するような方向へ、また人権を守り平和と民主主義の文化を創造するような方向へ促進していかなければならないことを確信した。」
このような趣旨を踏まえて、開始されたのがPISAなのですね。そして、PISA調査に先立って提起されたのが以下の言葉です。
「生徒達は未来にチャレンジする準備ができているだろうか?自分の考えを分析し、推論し、他の人と上手に意思を通じ合えるだろうか。生涯を通して学習し続ける能力を身につけているだろうか。両親、生徒、一般の人達、そして教育システムを運用する人々はこれらの問題に対する答えを知っておく必要がある。」
このように、PISAとは、地球規模、未来志向で教育の課題を捉えて計画されたものであることを心にとどめておく必要があります。そうでないと、単に国家間の学力競争という文脈で矮小されてしまうと思うのです。いや、もうすでに現状がそれを物語っているのかもしれません。
私は、1990年代から2000年前半にかけての世界の教育政策の動きは、非常に注目に値するのではないかと思っています。例えば、1996年に行われた、ユネスコ「21世紀教育国際委員会」学習:秘められた宝では、以下のような、特筆すべき「学習の4つの柱」が宣言されています。
・Learning to know(十分に幅の広い一般教養をもちながら、特定の課題については、深く学習する機会を得ながら「知ることを学ぶ」)
・Learning to do(多様な状況に対処し、他者と共に働く能力を涵養する)
・Learning to live together(一つの目的のために、共に働き、人間関係の反目をいかに解決するかを学びながら、多様性の価値と相互理解と平和の精神に基づいて、他者を理解し、相互依存を評価する)
・Learning to be(個人の人格をいっそう発達させ、自律心、判断力、責任感をもってことに当たることができるよう、「人間としていかに生きるかを学ぶ」)
ここで、日本の貢献も少し記しておきたいと思います。こういった世界の教育政策の潮流を踏まえ、1996年に、中教審が「生きる力」と「ゆとり」を軸にした教育改革の答申を行い、2002年に学習指導要領改訂と進みます。また、2002年にヨハネスブルクで開催された国連地球サミット「持続可能な開発に関する世界首脳会議」で日本が「ESD(持続可能な開発のための教育)10年」
として提唱し、採択されたのが次のものです。
<育みたい「能力」>
○自分で感じ、考える力
○問題の本質を見抜く力/批判する思考力
○気持ちや考えを表現する力
○多様な価値観をみとめ、尊重する力
○他者と協力してものごとを進める力
○具体的な解決方法を生み出す力
○自分が望む社会を思い描く力
○地域や国、地球の環境容量を理解する力
○みずから実践する力
<学びの「方法」>
●参加体験型の手法が活かされている
●現実的課題に実践的に取組んでいる
●継続的な学びのプロセスがある
●多様な立場・世代の人びとと学べる
●学習者の主体性を尊重する
●人や地域の可能性を最大限に活かしている
●関わる人が互いに学び合える
●ただ一つの正解をあらかじめ用意しない
これらを見ると、まさに今盛んに述べられている「主体的で対話的で深い学び」(アクティブラーニングの視点)の精神を垣間見ることができます。当時の文科省(文部省?)の方々の矜持を感じます。この流れを止めたのが、先ほど述べたような「PISAショック」を錦の御旗とした「脱ゆとり教育」への転換だと私は捉えています。
なお、この時代には、コンピュータを教育にどう取り入れるかという議論も巻き起こっていて、私もたくさんのCAI教材を開発したり、様々な場で発信しておりました。蛇足ですが、2000年頃、森内閣で始まった「教育改革国民会議」における「子どもへの方策」という、トンデモもあったりするのですが。まあ、それだけ教育に対して国民的議論がまき起こっていた時代だったのでしょう。
大変長くなってしまいました。N君には熱く語ってしまったのですが、このようなことを語って次世代にバトンを繋いでいくのが
本来の教師の使命なのではないかと私は思っています。
コメントをお書きください