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ハッピーマネジメントの概念図 そして臓器モデルのこと

2018年の話ですが、私は「未来のマナビフェス」の実行委員をしていて、マネジメントに関する分科会を担当していました。

私は、齋藤みずほさんと松嶋渉さんを助っ人にお呼びし、3人で幸せなマネジメントについて考えるワークショップを企画しました。このワークショップの目標は、そのセッション自体がハッピーな場となり、参加した方が幸せな気持ちになって、何かしらのギフトを得て職場に戻ってくださること。そして、参加者の皆さんがそれぞれハッピーマネジメントのプログラムを開発し、ハッピーマネジメントマイスターとして活動を広めてくださること。そんなことを思って企画をしました。

 

その中で、様々な「ハッピーマネジメント」概念図を作ってみましたので以下にちょっと紹介しますね。


妖精モデル

これは、ロナさんという妖精アーティストの方からいただいた絵を使いました。学校マネジメントのモデルとして作ったものです。皆さんなら吹き出しにどんな言葉を入れますか?

樹木モデル

樹木モデルは、根っ子がしっかりしていること、つまりよい土壌があって、その上で様々な成果が生み出されるということで考えたものです。

フラフープモデル

齋藤みずほさんがこの時期にフラフープに凝っていたということを聞いて、フラフープでハッピーな経営を語ってみようと思い作ったものです。

アンハッピーモデル

これはピーター・センゲの「学習する組織」の中で取り上げられていた、経済学者のエドワード・デミングが語ったマネジメントの一般的体系の負の局面について、私なりに絵にしてみたものです。お化け屋敷ですね。これを打破していくことにとってハッピーマネジメントが実現するというわけです。

こちらがハッピーバージョン。昔、カナダのケベック市に2週間ほど滞在したときに色鉛筆で描いた絵です。こちらのハートの吹き出しにあなたはどんな言葉を入れますか?

PERMAモデル

幸せの因子であるPERMAのモデルです。「数学力を高める」ということをテーマにして作ってみました。

ハッピークローバーモデル

PEAMAを応用した「幸せの4因子」(慶応大の前野隆司氏が提唱されたもの)を四葉のクローバーモデルにしました。これは、企業や学校の経営のためというより、個人がどう生きるかということを念頭において作りました。個人が幸せな人生を送ることも、セルフマネジメントなんですね。

ラルーのモデル

こちらは概念図ではなく、フレデリック・ラルーの「ティール組織」にまとめられている「無色」「マゼンタ」「レッド」「アンバー」「オレンジ」「グリーン」「ティール」をまとめたものになります。

曼荼羅モデル

曼荼羅モデルです。これは花巻北高校に勤務していた時に考えた「花高活性化プロジェクト」の概念図です。中央に8つのコアがあって、その具体を周辺に拡大していきます。花巻東高校の野球部でこれを用いていると話題になったことがありましたね。

こちらは、五角形を基本とした曼荼羅です。結構苦労して作りました。五角を合格にかけたのと、幸せの5つの因子PERMAとも対応させて、受験生バージョンを作ったものです。ちなみにこのセットが2つあれば、正12面体を作ることもできますよ。

このシリーズまだまだありますが、長くなったので最後のモデルを示しましょう。

臓器モデル①

こちらはアンハッピーマネジメントの概念図です。脳がすべてを統率して、各臓器は脳の指示に従って動くというピラミッド組織です。しかし、現代の知見では、人体はこのようなシステムで生命維持しているわけではないことがわかっていて、脳は体の3か所以上の場所にあるという説もあるようです。

臓器モデル②

これがハッピーマネジメントの臓器モデルです。それぞれの臓器が連携しあって機能しています。


コリント人への手紙

私はこの概念図をフェイスブックにアップしたところ、百合学園高校の内橋先生が、「臓器バージョンは、聖書の『コリント人への手紙』の箇所と一緒だなあと思いました。」というコメントをくださいました。

私は浅学にして「コリント人への手紙」のことは知りませんでした。

実は、私が作った臓器モデルは、(株)惣兵衛社長の惣兵衛さん、生物学者の福岡伸一さん、A・キンブレルの書かれた本、あるいはNHK特集の「人体」という番組からの影響を受けて描いたものです。

例えば、A・キンブレルの「生命に部分はない」で、その訳者である福岡伸一先生は、冒頭によせた一文に次のようなことを書かれています。

少し長いのですが引用します。

 

どうして手首は360°ぐるりと回すことができないのだろう。こんなシンプルな疑問について考えてもらいたいのだ。もし手首を360°ぐるりと回すことができたなら、私の身体はその瞬間、機械音をたてて動くロボットのように見えるはずだ。

なぜだろう。それは手首というものが、独立して作動するパーツになってしまうからだ。

ところが、実際には、手首は一定の範囲にしか動かないし、ひじは一定の角度以上には開かない。ひざも反対側には曲がらない。なぜ身体に、いちいち制限が設けられているのか。その理由を考えることは、人間とロボットの違い、つまり生物と機械の違いを明瞭に教えてくれる。

手首がその制限を超えて、より外側に回転を求めようとすれば、私の腕は自然にねじれ、肩が開き、腰は傾く。つまり制限があるゆえに、身体の他の部分の協調的な動きが促される。互いに他を補いながら、互いに他を律し、すべてのパーツは相補性の中にある。各パーツの制限は、パーツ相互の運動のためにある。いや、パーツという言い方が根本的に間違っているのだ。

もし私の手首が加齢のため、痛みがでたり、動きが悪くなったと感じたとき、新しい手首を購入し、交換することができたとしよう。一体どんなことが起きるだろうか。新品の手首を得た私は、気分一新、新鮮な生活を送れるようになるだろうか。恐らく否である。新品の手首はすぐに痛くなったり、動きが悪くなったりするに違いない。なぜなら、手首の痛みやその動きの悪さというものは、部品としての手首自体に問題があるというよりは、全体としての私の身体の加齢や動的平衡の乱れが、たまたま手首に現れているに過ぎないからである。

手首だけを交換してもそれらを治すことはできない。私の生命は全体としてひとつのものだ。本書のタイトル「生命に部分はない」とはまさにそういう意味なのである。

(「生命に部分はない」/A・キンブレル著・福岡伸一訳)

 

さて、内橋さんの言われた、聖書のコリント人への手紙とは次のようなものです。これも少し長いのですが、以下に引用します。

 

コリントの信徒への手紙一(12章12~26節)

体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。

足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。

耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。

もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。

そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。

すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。

だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。

目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。

それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。

神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。

それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。

一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。

 

なるほど。私は膝を打ちました。さすが内橋さん。様々な領域に感心を抱き、実践されているからこそ、そのアンテナにひっかってくるんですね。勉強になりました。うっちー、ありがとうございました。